kenoブログ

**ママ会いたいよ**

すきとおる肌でした

今日も夕飯は白飯なしでした。
 昨日の写真

 右下にあるピーマンとタマネギを炒めて卵投入。
キュウリ1本まるかじり。そしてナベの煮物とカボチャ。
 とにかく消化しなきゃならないので、ごはんは無しです。
長いもがまだそのままです。明日は長いもも食べます。
「野菜食べなきゃ」はいいのですが、テキトーすぎるとこうなります。
イッキに食べすぎはイカンので、うまく消化しなければならない。


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明日も仕事です。
 がんばります。
かーちゃんと猫2匹いたときは、ふつーに元気に頑張ってました。
 独り者になってからは頑張らないと頑張れません。これはつらいです。
神様おねがいです。ふたりで暮らしたいです。


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いつものドラッグストアのレジ。バイトのお嬢さん、新顔。スラッと長身。
 おつりもらうときに、手!指。


袋詰めの台に移動してから、客が途切れたのを見て
「ねえ、もう一度手を見せて」
見せてくれました。
「すっごいきれいだよね。肌白いね」
もちろん本人自覚していて、笑ってました。
 いやほんと、すっごくきれいに白い。
私の妻も肌は年齢無視してきれいでしたが、かーちゃんより上いく肌は初めて見ました。

落ち込んでる

しょうがない。
 落ち込むままに落ち込んでおけ。
沈んでる。
 なるままにまかせる。


 クリスチャンったって、地上にいる限りはいろんなことあるし、いろんなことに気分は左右される。宗教じゃないんだから、ウソついて「今日も何々様はすばらしい。いいことが必ずあります」とか言ってらんねーよ。


 道路交通法を賛美し感謝してほめたたえつつ守る、という人はいない。時に自分個人には不都合や納得いかなくても法律を犯すわけにはいかない。
 逆に、法律を逸脱しない限りは法に守られてる。
 いっしょ。人から出た宗教はそのへんテキトー。テキトーに耳に聞こえのいいことだけ言ってる。もちろんそんなうまいことにはならないが、ならなくても責任はないから口から出まかせでいい。


 わたしゃ何度も何度も言っている。
神様にはたいへん失礼な言い方。
「現実事実だからしょうがない。神様はいて、人間は必ず死ぬし、天国地獄が実在して、人は死んだらどっちかに行くのが現実」
 だもんでさ、昨日の晩からヒジョーに落ち込んでますが、ジタバタしてもしょうがないから時の過ぎゆくままに。
 あ、「とーきーのー・すぎゆくままーにー」って歌ってたの、あのおっさんどうしてるのかな。まだ生きてるよね。ずいぶん前に、いいトシこいて体型崩壊のままコンサートやるってときに集客数が少ないからやらないとダダこねてまわりを困らせ損害与えたとかいう記事見たけど。
「アンタの時代はーよかったー」ってか。終わったんだからすなおに低くしてりゃ賞賛を得ることもできただろうに。プライド振りかざして「末路」みたいになって。


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 今、旧約聖書の通読は「ヨブ記」なんだ。知ってる人は知ってるね。定番箇所だ。
何度も読んでるヨブ記だけど、今回はちょっと違和感を覚えた。


 神様と悪魔のやりとりで、
神様「ヨブを見たか、彼ほど神を恐れ、忠実なものはいない」
悪魔「あなたが彼に良くしてやってるからです。彼のものを全部取り去れば彼はあなたを呪いますよ」
 ってとこからはじまって、当時の大富豪だったヨブは子供らも事業(大量の家畜とそのための使用人)も失い、果ては自身のカラダもひどい皮膚病におおわれてしまう。家族財産すべてを失った上にカラダもやられてしまった。
 それでもヨブは「神は与え、取りたもう。神の名はほむべきかな」と言って神に文句を言うことはなかった。
 奥さんだけは生きてたようで、彼女はヨブに
「そこまでなったなら、神を呪って死になさい」と言った。ひでー女房だ。
やがてそれを聞いた友が3人+1人、遠方から来て嘆き悲しんだが、何日か経ってヨブがついに自分が生まれたことを呪い始めたところからヨブ対友の論争になるって話。
 知ってる人にはおなじみの聖書か所。旧約聖書の。


旧約聖書の通読はあまりしてないけれど10回以上は読んでる。
 これまで気づかなかった、何が違和感かというと、友は、神は正しいってことで、ヨブの間違いを探して責めてヨブを納得させようとしてるんだよね。
 なんだかさ、日本人の感情と違って、いかにも欧米人視点だよなと思った。
もし自分自身がヨブの災害被った(こうむった)ならばどうなるかに思いはいかず、神は聖であり正義なのだから、こうなってしまったのはオマエが、ということで3人の友はヨブを責めるのだ。日本人の道徳観、感情とはズレてる。


 でもね、宗教ってこれでしょ。
私がいた、実家がやってた新興宗教ってこれだよ。
 ナントカ様をでっちあげてる以上は、不都合なことはぜったいにオマエ側に非があると決めつけるのだ。そうじゃなきゃいけないのだ。「そうだ。そうに決まった」なのだ。


 で、思い出すのが、キリスト教でも聖霊派の一派が言ってたこと。これちょっと内輪の話でごめんなさい。
 福音派は(ざっくりで乱暴な言い方でゴメン)奇跡や奇跡的な病気の癒しは現代には無いという立場。聖霊派はそれらすべて今も変わらずあるし、祈れば起こりうること。悪霊も追い出せるという立場だ。
 聖霊派としてはそうじゃなきゃいけないので、「使徒パウロは目が悪かった」の定説を受け入れるわけにいかない。パウロはたくさんの癒しや奇跡を行い、彼のエプロン(前掛け)を病人にあてただけで病人が癒されたりしてる。
 なのでパウロが自分で
「自分の身にはみなさんには不都合な部分がある」と言ってる「とげ」は迫害のことだと決めていた。聖書のどっかに「とげ」という単語は迫害のこととして用いられてるから。


 でもさあ、ふつーに読めよ、と思う。
「あなたがたはできることなら自分の目をえぐり出してでも私に与えたいと思った」とか、
「今わたしはこんなに大きな字で自分であいさつを書いてる」とか
「これを(パウロの口述筆記者)書いてる私もみなさまに挨拶を送ります」ってあるじゃん。
ふつーに読んだら目が悪かったんだなと思うだろ。
 さらには、使徒仲間にも「死ぬほどの病気になった」のが複数いたことが書かれている。
パウロがいたのに使徒仲間に重病人がいて「行ってなおしてやった」は、無い。
 なおらない病気もあったということだ。
イエス様だって不信仰な地域ではわずかしか奇跡はなさらなかったと書いてある。


「わたしたちは聖書に書かれてることはすべて現代においても真実と受け止めています」
という立場でありながら、不都合には「こじつけ」するんですよ。
 もう、うんざりです。
福音派はそれはそれでそれなりにそういうことです。なんでやねん、は数知れず。


ということで、教会は選択しなきゃならんというキビしい現実があります。
 ただし、神の子イエスキリストだけが救い主であり、彼を通してでなければ誰も天国には入れませんというひとつのことだけは、すべての教会(異端と呼ばれるニセキリスト教は除く・要注意)で同じです。だもんで、救われるためには教会、でいいです。


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 ちなみに、今私が行ってる教会は福音派に属しますが、ひとことでいうとバランスのいい教会で、神の愛も実践しています。
 耳の聞こえない来会者(私です)にも親切で、現実的実質的なサポートをしてくだっさってます(以前の聖霊派教会では「聞こえない耳で何しに来てたのか」と言われました。自分のパソコン持参で音声テキスト化しないと説教はわかりませんでした。今の教会は目の前に置かれたタブレットに音声テキスト化の表示で礼拝進行がすべて読めます。私は自分では何もしていません。教会が用意してくれました)。
 説教内容も福音派のワリには「聖霊によって」という言葉がよく聞かれ、信仰的には聖霊派寄りの私にも違和感ないです。
 まだ、通い始めてから1年未満ですが。


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 昨日の仕事帰りにスーパー寄って野菜買ったのに、今日も他の買い物ついでに野菜を買ってしまいエラいことになっています。

 こういうとき、独り暮らしは困る。
今日の夕飯は「白飯なし」でした。ちゃんと消化しなきゃ。

雨じゃん

今日も1日仕事がんばります。


 なんのため


って、それ言ったらいかん。

耳が復活したら

さっき、なにげなく祈った。神様に。
 神様になにげなく口から出まかせみたいな祈りってのはふつうはイカンと思うんだけど。


「トンデモな女と思うことが多々の彼女ですが、ひとつだけ、事実として認めなきゃならないことがあります。私の耳がいやされ復活し聞こえるようにと祈ってくれてることにおいては、彼女が誰よりもたくさん祈ってるのは事実です。彼女はただの知人であり、それ以上のつきあいをする気もありませんが、もしも神様、あなたが彼女の願いを聞き入れてくださり、私の耳が正常に戻ったら、そのときは再び彼女に会いに行き、すまなかったと謝罪し感謝を伝えます」と。


 今行ってる教会ではこういうことは、無い。いい教会だけど。
いわゆる福音派では「奇跡的な癒し」は無い、ってことになっている。
(※※ひとくちに「福音派」といっても個々の教会・牧師によってかなり聖書解釈・信仰に違いがある。病の癒しは今でもありうるという立場の教会もあります。事実10年位前かな、福音派のある牧師は私の耳に手を置いて「神様、どうかこの兄弟の耳をなおしてあげてください」と祈ってくれました。まっすぐな信仰の、神様に喜ばれる牧師と思います。あの牧師にも、もし耳が開いたらそのときは報告に行きます。「先生、あなたが私の耳のために祈ったことを覚えてますか」と※※)
 いっぽう、聖霊派では「病の癒し」は前面に掲げてます。今も変わらず奇跡の癒しは神様の栄光の現れであると。
(私のまわりに奇跡的な癒しを受け取った人々がいますが、「必ず・だれでも」ではないので私は「静観」の立場です。声を大にして「癒しだ奇跡だ」ってのはちょっと)


私自身はとくにこだわってない。
 両面ある。信仰者の歩みに。
ひとつは絶対に神は癒してくださるのだと信じてること。
もうひとつは病気に限らずどんな障害があっても神様は助けてくださり生きていけるということ。
 私は後者のほうだ。聴力が低下するにしたがって2回職を変えている。
これについては記事カテゴリの「経験体験」にUPしてある。


 神様はたしかに信じる者の面倒をみてくださっている。
私は自殺未遂の高校中退、中卒で何のとりえも資格もない現業系労働者。


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障害者手帳をもらって、もう8年になる。
 その間に聴力はさらに低下して、現状はたぶん4級レベルと思う。初めて認定されたのは6級で一番程度の軽い等級。手帳は今もそのままで継続。(めんどうな手続きをやりなおして4級にするメリットがないのでそのままにしています。たとえば2級なら障害者年金がもらえるようになります/モリコロスケート場は6級でもタダです/ETC割引も等級変わらず)


 長い期間耳が聞こえなかったのは奇跡的に癒されるには都合がいい。だれも疑わないからだ。手帳もらってのち、癒されるのが早すぎたら「聞こえないのはウソだったんだろ」と言うのが必ずいる。あの新興宗教とかね。


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今日の夕飯。これ、ウチでは豪華な夕飯だ。

買い物行ったから。サラダとアジフライは総菜コーナー。キュウリはまるかじり。味付き肉パックにネギとぶなしめじとキャベツを投入で炒めもの。炒め物は半分残ったので明日に。

礼拝眠かった

メッセージ(説教)が子守歌で。
 まわり見たら3分の1くらいねてるし、かろうじて姿勢を保ってるだけみたいな人もいて、つまり半分かそれ以上はマトモに説教聞いてない。
 内容が、聖餐式(せいさんしき/キリスト教会では定番の儀式です)についてで、耳タコものの内容を繰り返し。
 私も寝てました。姿勢を保つのが精いっぱいで脳は休眠状態でした。
遠方(三重県津市)からはるばる説教に来てくださった牧師先生でしたが、ごめんなさい。


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 今日は午後から雨。
さっき、買い物とガソリン満タン行ってきました。
 なにもなくダラダラな日曜日です。


ああ、ほしい・・・。


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結婚前、長銀時代。どっか旅行の海だね。

妻は就職活動で面接のさいに
「銀行はつぶれないから」と言ったのだそうだ。
長銀は消滅しました。


結婚してまもないころだ。妻がサイフ忘れて仕事に行ってしまった。
 私がちょうど休みの日だったので銀行が開く時間をねらって届けに行ったのだ。
店頭の行員さん(女)に、名前を言ってから「これ、ウチのやつに。忘れていったので」とお願いした。
 帰ったかーちゃん。
「かっこいいってウワサが。また何か理由つけて来させなよって先輩に言われた」と。
手渡したお嬢さんは初対面の雰囲気しか見てない。短足胴長はバレなかったようだ。