kenoブログ

**ママ会いたいよ**

落ち込んでる

しょうがない。
 落ち込むままに落ち込んでおけ。
沈んでる。
 なるままにまかせる。


 クリスチャンったって、地上にいる限りはいろんなことあるし、いろんなことに気分は左右される。宗教じゃないんだから、ウソついて「今日も何々様はすばらしい。いいことが必ずあります」とか言ってらんねーよ。


 道路交通法を賛美し感謝してほめたたえつつ守る、という人はいない。時に自分個人には不都合や納得いかなくても法律を犯すわけにはいかない。
 逆に、法律を逸脱しない限りは法に守られてる。
 いっしょ。人から出た宗教はそのへんテキトー。テキトーに耳に聞こえのいいことだけ言ってる。もちろんそんなうまいことにはならないが、ならなくても責任はないから口から出まかせでいい。


 わたしゃ何度も何度も言っている。
神様にはたいへん失礼な言い方。
「現実事実だからしょうがない。神様はいて、人間は必ず死ぬし、天国地獄が実在して、人は死んだらどっちかに行くのが現実」
 だもんでさ、昨日の晩からヒジョーに落ち込んでますが、ジタバタしてもしょうがないから時の過ぎゆくままに。
 あ、「とーきーのー・すぎゆくままーにー」って歌ってたの、あのおっさんどうしてるのかな。まだ生きてるよね。ずいぶん前に、いいトシこいて体型崩壊のままコンサートやるってときに集客数が少ないからやらないとダダこねてまわりを困らせ損害与えたとかいう記事見たけど。
「アンタの時代はーよかったー」ってか。終わったんだからすなおに低くしてりゃ賞賛を得ることもできただろうに。プライド振りかざして「末路」みたいになって。


**********


 今、旧約聖書の通読は「ヨブ記」なんだ。知ってる人は知ってるね。定番箇所だ。
何度も読んでるヨブ記だけど、今回はちょっと違和感を覚えた。


 神様と悪魔のやりとりで、
神様「ヨブを見たか、彼ほど神を恐れ、忠実なものはいない」
悪魔「あなたが彼に良くしてやってるからです。彼のものを全部取り去れば彼はあなたを呪いますよ」
 ってとこからはじまって、当時の大富豪だったヨブは子供らも事業(大量の家畜とそのための使用人)も失い、果ては自身のカラダもひどい皮膚病におおわれてしまう。家族財産すべてを失った上にカラダもやられてしまった。
 それでもヨブは「神は与え、取りたもう。神の名はほむべきかな」と言って神に文句を言うことはなかった。
 奥さんだけは生きてたようで、彼女はヨブに
「そこまでなったなら、神を呪って死になさい」と言った。ひでー女房だ。
やがてそれを聞いた友が3人+1人、遠方から来て嘆き悲しんだが、何日か経ってヨブがついに自分が生まれたことを呪い始めたところからヨブ対友の論争になるって話。
 知ってる人にはおなじみの聖書か所。旧約聖書の。


旧約聖書の通読はあまりしてないけれど10回以上は読んでる。
 これまで気づかなかった、何が違和感かというと、友は、神は正しいってことで、ヨブの間違いを探して責めてヨブを納得させようとしてるんだよね。
 なんだかさ、日本人の感情と違って、いかにも欧米人視点だよなと思った。
もし自分自身がヨブの災害被った(こうむった)ならばどうなるかに思いはいかず、神は聖であり正義なのだから、こうなってしまったのはオマエが、ということで3人の友はヨブを責めるのだ。日本人の道徳観、感情とはズレてる。


 でもね、宗教ってこれでしょ。
私がいた、実家がやってた新興宗教ってこれだよ。
 ナントカ様をでっちあげてる以上は、不都合なことはぜったいにオマエ側に非があると決めつけるのだ。そうじゃなきゃいけないのだ。「そうだ。そうに決まった」なのだ。


 で、思い出すのが、キリスト教でも聖霊派の一派が言ってたこと。これちょっと内輪の話でごめんなさい。
 福音派は(ざっくりで乱暴な言い方でゴメン)奇跡や奇跡的な病気の癒しは現代には無いという立場。聖霊派はそれらすべて今も変わらずあるし、祈れば起こりうること。悪霊も追い出せるという立場だ。
 聖霊派としてはそうじゃなきゃいけないので、「使徒パウロは目が悪かった」の定説を受け入れるわけにいかない。パウロはたくさんの癒しや奇跡を行い、彼のエプロン(前掛け)を病人にあてただけで病人が癒されたりしてる。
 なのでパウロが自分で
「自分の身にはみなさんには不都合な部分がある」と言ってる「とげ」は迫害のことだと決めていた。聖書のどっかに「とげ」という単語は迫害のこととして用いられてるから。


 でもさあ、ふつーに読めよ、と思う。
「あなたがたはできることなら自分の目をえぐり出してでも私に与えたいと思った」とか、
「今わたしはこんなに大きな字で自分であいさつを書いてる」とか
「これを(パウロの口述筆記者)書いてる私もみなさまに挨拶を送ります」ってあるじゃん。
ふつーに読んだら目が悪かったんだなと思うだろ。
 さらには、使徒仲間にも「死ぬほどの病気になった」のが複数いたことが書かれている。
パウロがいたのに使徒仲間に重病人がいて「行ってなおしてやった」は、無い。
 なおらない病気もあったということだ。
イエス様だって不信仰な地域ではわずかしか奇跡はなさらなかったと書いてある。


「わたしたちは聖書に書かれてることはすべて現代においても真実と受け止めています」
という立場でありながら、不都合には「こじつけ」するんですよ。
 もう、うんざりです。
福音派はそれはそれでそれなりにそういうことです。なんでやねん、は数知れず。


ということで、教会は選択しなきゃならんというキビしい現実があります。
 ただし、神の子イエスキリストだけが救い主であり、彼を通してでなければ誰も天国には入れませんというひとつのことだけは、すべての教会(異端と呼ばれるニセキリスト教は除く・要注意)で同じです。だもんで、救われるためには教会、でいいです。


***************


 ちなみに、今私が行ってる教会は福音派に属しますが、ひとことでいうとバランスのいい教会で、神の愛も実践しています。
 耳の聞こえない来会者(私です)にも親切で、現実的実質的なサポートをしてくだっさってます(以前の聖霊派教会では「聞こえない耳で何しに来てたのか」と言われました。自分のパソコン持参で音声テキスト化しないと説教はわかりませんでした。今の教会は目の前に置かれたタブレットに音声テキスト化の表示で礼拝進行がすべて読めます。私は自分では何もしていません。教会が用意してくれました)。
 説教内容も福音派のワリには「聖霊によって」という言葉がよく聞かれ、信仰的には聖霊派寄りの私にも違和感ないです。
 まだ、通い始めてから1年未満ですが。


**********


 昨日の仕事帰りにスーパー寄って野菜買ったのに、今日も他の買い物ついでに野菜を買ってしまいエラいことになっています。

 こういうとき、独り暮らしは困る。
今日の夕飯は「白飯なし」でした。ちゃんと消化しなきゃ。

×

非ログインユーザーとして返信する