先に言っときます。教会の内輪の話です。
今日の礼拝メッセージ(説教)。
なるほどと、わかったことがある。
あのK兄弟(長老?)のメッセージはちょっとちがう。
メッセンジャーがすばらしいとかじゃない。ぜんぜん。
説教者の影は薄い。
そもそも私は彼がどんな人なのかも知らない。
会釈程度の挨拶だけ。今まで会話はまったくない。
あの教会では重役、ってこと以外しらない。
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新改訳聖書のバージョン。
現在教会で用いられてるのは「新改訳2017」です。
私が救われた当時から使ってきたのはその前のバージョン。
新改訳第2版だったかな。わかんないごめん。
で、以前、2017版は日本語がおかしいと書いた。
翻訳作業がむずかしいのはわかるけど、もうすこし意訳(対するは直訳)に振ってもよかったろうにと思ったわけです。
でも最近、箴言の2章7節では2017版のほうが良いと思った。
2017版「主は正直な人のために、すぐれた知性をたくわえ、誠実に歩む人たちの盾(たて)となり(8節)公正の道筋を保ち、主にある敬虔な人たちの道を守られる」
第2版「彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり(8節)公儀の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る」
長くなるから聖書個所の引用はとばしますが、正直な者を神様は好まれます。正直な人に神様は近づいてくれます。いろいろ示してくれたりします。
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霊・魂(たましい)・体。
ちょっと年数経たクリスチャンなら知ってることですが、人間はこの3つから成っています。このうち、体は肉体のこと。霊と魂の境界線がわかりにくい。じっさいはハッキリしてるのですが、聖書でも「良心がマヒした者」とか「霊が死んだ者」とかの表現にあるように、霊は神様と密接な関係にあります。「理性や良心」に近いですがそのものではないです。
魂は、乱暴に言ってしまえば感情や知性。体の側に近い。魂は動物にもあります。霊は人間にしかありません。だから人間は死んだら天国か地獄に行って永遠に生きています。
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「砕かれた魂」
詩編51の17「神へのいけにえは砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。神よあなたはそれをさげすまれません」
34編の18では「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、魂の砕かれた者を救われる」
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これ、話すとすっごく長くなるのでやめときます。
最初に戻って、今日のメッセージ。
わかったんだ。
メッセンジャーの彼はね、たましいがくだかれてる。
つまり、霊がカラダ(口・話す機能)を通して語っている。その精度純度が高いのだと思う。
たとえば聖書知識が豊富な人。聖書の時代背景やとりまくあらゆる関連知識を学んだ人が説教すると、聞くにはいろいろ知った気になる。でもパウロが「それらの知識はゴミと思うようになった」と言ってるとおり、「まあ、知ってて損はないかな」くらいのものだ。魂の部分では思惑(おもわく)、邪念や、自分の信念、教派教団や所属の教理、伝えて説得するための説教テクニックとかいろいろあるわけよ。
魂の領域で考えるとき、人間的な思いがたああーくさん入る。ひとくくりに邪念といっていい。教会内での自分の立ち位置や所属教団が支持する教理への配慮とかね。分厚い聖書から今回は何を講壇から語るべきかなど。
霊は神様と通信できる。魂はそれを整理整頓して肉体に渡す。で、語る。
霊が曇ってしまっていると神様の思いを受け取るのも曇ってしまう。自分の考察だけになったりする。未信者は霊が何なのか知らないのだから神を知ることもない。
「神は霊だから霊と誠をもって礼拝~」また
「愛のないものに神はわからない/神は愛だから」とあるように。
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「砕かれたたましい」ってのは、神様の思いを優先できる人のこと。
人間的な邪念を排除し、神様のみこころを霊で語れる人。
「どうやったらこの教えをうまく説明できるか、違うこと言う者たちを説得するにはどの聖書個所を引けばいいか」など考えず、
「主よ、次の講壇に立つとき、あなたが語りたいことを私は語ります」
というへりくだった心。
「私はただの器です。会衆のみなさんがあなたの思い、恵みを受け取れるよう、兄弟姉妹の益となるよう私を使ってください」と主に祈れる人。
魂。感情や人の思惑、知識、プライド。
それらを排除し、神様からの思いを霊で受けとり、それを語るだけの人。
神様とのまじわり、よく祈るひと。
あの兄弟はその純度が高いのだと思った。
だから、今日の説教でも、私は途中で泣けそうになった。そして、彼自身のことは、その影は薄く、印象がない。
彼は日ごろからそうなのだろうと思った。
「よく訓練すれば師くらいにはなれる」とイエス様は言われました。
今日のメッセージでも「訓練」。
つまりね、日ごろから心がけ、訓練鍛錬されなければ、自分の肉の心を殺して聖霊の思いにゆだねる・服従することはできません。個人差あるにしても年数のかかることです。
それは失敗ばかりの私が経験しています。
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今日ね、説教の途中で「飛びますが」と言って、用意していた聖書箇所とは違う場所を指し示しました。「示された」という言葉が出ました。神様から示されたんです。
これ、ちょっとびっくりでした。聖霊派教会のメッセージでよく聞くことです。じっさいは聖霊派教会で説教者が同じこと言っても、じつは自分の思いつきだったりします。
今日のそれはほんとに神様の導きだったと私は信じています。
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福音派教会であっても、この教会のように
「聖霊の導きを求めて」と語られてるところでは、神様は働きやすいのだと知りました。
「あなたの信仰のとおりになれ」がイエス様の言葉です。
とても恵みのメッセージでした。
神様に、イエス様に感謝します。
彼自身をほめたり感謝すると、彼の、神様からの報酬が減るのでやめときます(笑)。
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それもこれも、感謝していることは、私の目の前にタブレットを置いてくださってることです。音声テキスト化で文字表示の。
まことにありがたいです。ありがとうございます。
これがなかったら、私は、ただ無音で座ってるだけなのです。今日の説教もまったくわからないままです。黙って座って時間をすごし、礼拝が終わったら帰ってくるだけです。
聞くため、音声テキスト化のために、私は何もしていません。
「教会のすべきことですから」と言って、タブレットを用意してくださった方々に神様の恵みが豊かにありますように。その愛の行動に神様からの報いがありますように。
感謝しています。