kenoブログ

**イエスキリストを信じなさい**

死ぬまで賃貸

この記事もまた以前にUPしてるかもしれません。


「経験体験」タグの記事で就職・仕事については神様の奇跡的な導きがあったことをあかししてきました。現在の仕事もです。障害者求人では特別なスキル、資格がない限りほぼ最低賃金の求人しかなかったのです。25年以上音沙汰のなかった知人から手紙が来てたのでした。失業給付金が切れる手前でした。


 なぜこんなに奇跡的な就職が続けてできてしまうのか。高校中退、中卒の私に。
神様の恵みはだれにでも等しく注がれます。「神にえこひいきはない」と書かれています。
「じゃあ、クリスチャンは全員そのようなのですね」
そうであってほしいです。


 私なりの解釈をここに記しておきます。
クリスチャンの方々には参考になると思います。


 私は貧乏な家庭で育ちました。
兄たちは坊さんになりました。私のすぐ上の兄は小学5年生(だったと思う)で出家しました。
 男ばかり6人兄弟。寺に出すことで経済的に助かります。両親には救いだったのでしょう。事実、出家した兄たちは有名大学を卒業しました。ひとりは弁護士です。長兄は電気系有名企業に就職。次男から3人が出家しました。そして私は虐待。弟は「末っ子の特権」であまやかされてました。


 私がイエス様を信じて救われたのは23歳ころでした。
教会への献金については理解していました。
 こう祈ったのです。
「神様、私はマイホームいらないです。あなたのことば(聖書)に「衣食があればそれで満足しなさい」とあります。マイホームが欲しいとなれば、貧乏な家庭で育ちカネにいやしい心のある私はあなたへの献金が負担になります。「喜んでささげなさい」というあなたの言葉は守れないでしょう。だから、一生賃貸でかまいません。そのかわり、生活に困ることがないようにしてください。あなたのことばには「私を分相応で養ってください。富んで満腹し「主とはだれだ」と言わないように。貧しくて盗みをして神の名がけがされないように」ともあります。私はマイホームいらないですので、食いっぱぐれのないように適当に面倒みてください」
と、このように祈ったのです。
 そのとおりになっています。神様は私の祈り、願いをうけいれてくださったのです。


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 それで、目の前のきびしい現実はこれです。
カネがないわけじゃない。めんどくさい。

カップラーメンと、ドラッグストアでパックの野菜サラダと冷凍もののブロッコリー。メシ作ってくれるひとを求めている。神様、お願いします。


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 娘。昔の写真。修学旅行のかわりに連れて行ったんだ。長野。ここは野辺山かな。
修学旅行、京都の寺巡り。クリスチャンにはクソな行程だった。「べつに、拝まなきゃいいんだから好きにしな」で、本人「いかない」でした。

 結婚して千葉県にいるよ。平和に暮らしている。

息子の願いをきいてくれた神様

これも過去にUPしたかも。


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下の息子が高校生のときのことです。


 彼はいわゆる「萌えキャラ」の趣味がありました。
彼の部屋にはポスターやグッズがありました。


 聖書的に厳格に言うなら「萌え系」は「情欲」につながるので「よくない」ということになります。
 が、それ自体は「かわいい女の子の絵」なので、思春期の男の子が興味を持つのは自然なことでしょう。裸ではなくちゃんと衣装を着たキャラクターだったので、しばらくは静観ということに。


 あるとき秋葉原でそのキャラクターのイベントが企画されました。
人気キャラクターのようで、会場への入場券は発売後すぐに売り切れでした。
 息子はどうしても行きたかった。そこでしか入手できないグッズもあるし、イベント限定のいろんなものを見に行きたかった。
 しかし入場券は手に入らなかった。高校生でしたが名古屋から秋葉原まで行って買い物するためのおこずかいは貯めていました。


 彼は小さい時から教会に行ってました。
救いについてはもちろん、クリスチャンとしての基本的な信仰の心得も聖書から学んでいました。
 イベント前夜、彼は言いました。
「オレ、あした秋葉原に行く。祈って神様にお願いした。たぶん神様は聞いてくれると思う」
私は「ああそうか。気をつけてな」とだけ返事しました。
 私の内心は
「神様が「萌えキャラ」の応援をするハズがない。会場に入ることはできないだろう。まあせいぜい初めての東京、初めての一人での秋葉原を楽しんで来ればいい」でした。


 袋をかかえて晩に帰ってきた息子。
「会場の前で待った。何人かで行こうと約束して、ひとりだけ来れなくなってチケットが余るグループがあるのではないかと期待して入り口付近で待った。そういうグループはいなかった。入場券を高額で売りつけるあやしい人はいたけど、そういうのからは絶対買わないと決めていたから無視した。開場時間になってもダメだった。あと5分待ってチケットが手に入らなかったら帰ろうと思った。
  ある男の人が(歳は20代前半くらいだったようだ)僕を見て寄ってきた。
「チケットが無いんでしょ。これあげます」と言ってチケットをくれた。
  あわててチケット代金分のお金を出そうとしたら「いいです。あげます」と言って、さっさと人ごみの中に消えてしまった。それで会場に入ることができた」


 なんとイエス様は「萌え系キャラ」めあてに入場券無しで名古屋から秋葉原のイベント会場に向かった、息子の願いをかなえてくれたのです。
「神様はきっときいてくれる」という、当時高校生だった息子の信仰にこたえてくれたのでした。
 イエス様はとてもいつくしみ深い方であられます。


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「もちろん」私たち家族や、のちには教会の仲間が
「どんな顔してた!!、服装は!?」と
 つまり内輪では、それがイエス様か天使だったのではないか、ということで。
全国レベル、世界レベルではそのようにして天の御使い(天使)やイエス様が「仮の姿」で現れることがあかしされています。
 息子は「いや、ふつうの人だったけど・・」でした。


息子。鈴鹿サーキットにて。自転車イベントで。

7年間、でした。

なつかしい写真をみつけました。

私がこの会社をやめるとき、みなさんが記念にと。
 運転席は私。
荷台には、お世話になった課のみなさん。


 7年間おせわになりました。
この4tトラックで自動車大手の工場はじめ、関係先を走り回りました。
 無事故でした。モノも無事故で運びました。神様に感謝しました。


会社のスキー。
 妻と息子も参加しました。ありがたかったです。
写真は会社女子、営業マン。

 この地上で、楽しく生きていられること。
とてもとても感謝なことです。


 こんな私だけど、残りの時間を、使ってほしい。神様。

私は宝くじあたりません

宝くじに限らず、くじは当たりません。
 クリスチャンになって最初のころに神様に祈ってしまったのです。
「主よ、私は貧乏な家庭に育ったので、お金にいやしい面があります。宝くじとかギャンブル性のくじには心ひかれます。なので当たらないようにしてください。そうすればそういうむなしいことはあきらめて神様だけに期待し頼るようになりますから」
と、まあこんなかんじで神様にお願いしてしまいました。
 それからは、買い物先などちょっとしたイベントのくじで「どうぞひとつひいてください」でも何か当たったことはありません。


 でも、シーズン初日のきそふくしまスキー場。
オープンイベントでのガラガラくじ。
 神様に祈りました。
「主よ、これはギャンブル性のくじではなく、スキー場のイベントで、事業活動の一環です。シーズン中にまた来ます。タダ券ほしいです。企業にとっては場を盛り上げる宣伝活動ですから、タダ券ください。お願いします」と。


ママ。

はずれでした。(スキー用にヘルメットに装着したビデオカメラで撮ってました)


私。招待券当たり。当たりのカランカラン振ってます。


1日リフト券と、あと千円割引券が入ってました。


 テーブルに戻り、当たったよとママに見せました。
ママ「パパはくじは当たらないんじゃないの?」
私は神様にこう祈ったのだと言いました。
ママ「そうかあ、私も祈ればよかったのか」でした。

楽しかったなあ。スキー。
 ママ死んでから一度も行ってない。


次のシーズン、スキー行きたい。

牧師のとりなしの祈り

過去にUPしたことのある記事です。
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 私はある時期、自分の罪の性質や、仕事のこと、家庭や夫婦間のこと、いろいろなことに悩み、疲れていました。もうマジメに考えることもイヤになっていました。
 40歳のころだったと思います。


 あるとき口に出して、こうつぶやきました。「神様、もういい。しんどい。どうせオレ教会の奉仕とかできんし、使い物にならん器だ。それでもイエス様が私の主であり、悪いことは悪いと悔い改めもしている。私はいつ死んでも天国だ。これ以上ダラダラと罪と戦うだけで何の役にも立たず、自分はつらい思いばかりなら、クルマにハネられて一発で死にたい。ちゃんと上乗せ保険かけてるマトモなクルマが、うっかりの信号無視。バーンとハネられて即死。それなら相応の保険金が家に入るし、私も天国行ってラクになる。神様、それでいいよ」


 敵である悪魔が、私のこのつぶやきを聞き、
「神様これこのとおり、この者は自分からあなたに申し述べたのですから、この世から取り去ることができます」と訴えたと思います。


 ヨブ記の1章で、悪魔は神様の前に出て訴えることができる様子が書かれています。


 聖書の他の箇所には
「あなたの口のことばによってあなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら」
また、ダビデは詩編39で
「私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。」とも、ほかにも
「死と生は舌に支配される」
などなど、口から出る告白については聖書にたくさん書かれています。


 ある日の未明でした。徹夜仕事を終えて始発電車で帰ってきました。冬でしたので、下車駅から出た時間はまだ夜が明けてませんでした。
 すぐに大きな交差点があります。
 私は歩行者用信号の青信号で横断歩道を渡っていました。
暴走車が来ました。
 気づいた瞬間、距離とスピードから「まにあわない」と思いました。
急ブレーキを踏んでもまにあわない状況でした。
 カラダを止め、つま先で立った私のコートを暴走車のミラーがかすっていきました。
あまりに近かったので、クルマの運転手をはっきり見ました。
 若い女性でした。目がおかしかったです。
直後に暴走車がもう一台きました。男でした。このクルマは手前で私に気づき、よけていきました。女性は男に追われてるようでした。


 私は何度も信号を確認しました。まちがいなく歩行者用信号は青で、2台のクルマが信号無視の暴走でした。


 家に帰り、いつものようにパソコンを起動し、メールチェックをしました。
 牧師からメールが来ていました。
「太郎さん、お変りないでしょうか。じつは夜中に神様に起こされて、太郎さんのために祈れと示されました。何のことかわかりませんでしたが、とにかく太郎さんの平安のために祈りました」


 私はこのできごとを牧師に返信しました。
悪魔が「当然の訴え」を神様にしてきたことに対して、主は「とりなしの祈り」を牧師に命じたのです。聖書では義人によるとりなしの祈りは罪をゆるすとあります。
 私は口から出る言葉で失敗し、命を落とすところでした。
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 クリスチャンのあいだでは、このような体験談はたくさんあります。