kenoブログ

**イエスキリストを信じなさい**

雨の名古屋駅ビル群

庄内川の北にある現場から。

水曜日。雨。厚い雲。霧。
 この現場に来るといつも思う。
妻に。名古屋で死なせてしまった。すまない、と。
 できることなら香川に帰りたかった。


手前の河川敷。


 従順だった。
教会生活も。今日思った。
 信仰も教会生活もすべて私に従い、なにも言わなかった。
そして神様がよくしてくださるのを経験して生きた。
 彼女は私についていれば安泰だと、何してても好きなことしててもだいじょうぶだと知っていた。神様に信頼するから神様の教えに従って夫に。
 思い返せば立派な信仰だった。
事実、良い時代をいいとこどりで生き、そのまま天国へ。
 ママ、よかったな。


 今日思った。
教会関係の中で次を探してはいけないと。
 いっそ、未信者がいい。
いっしょになってから聖書解釈の争いが発生する可能性、そんなことがあるなら今すぐ死んだほうがマシだ。
 未信者で白紙から。じゃなきゃムリだ。そう思った。


妻は従順だった。失ってから思う。

今日の礼拝はよかった

今日の礼拝、というとメインは説教になってしまうのですが。
 いちおう断りとして、礼拝は説教を聞きに行くのではありません。
神様を礼拝しに行くのです。
 英語圏で生活していた牧師から聞いたことがあります。
あちらでは礼拝は「サービス」の単語を使うそうです。
 礼拝の一部として説教があり、それで聖書の言葉や神様からの言葉を聞くのです。


で、本題の、なにがよかったかって。
説教なんですが。
 今日の説教者は牧師ではありませんが教師の資格をもっています。つまりヒラの信徒よりは上なのですが、牧師という、教会の総元締め的な人ではないです。
 けっこう気合が入った感じのメッセージでした。内容的にはすべてアーメンで、何度聞いても良い聖書・神様の言葉でした。


 牧師、現在はいないんですよ。今行ってる教会。
それでたまに(基本月1回)三重県津市の同系列教会からはるばる牧師先生が来られます。それなりにエラい先生なのかなと思っております。


でね、先週の礼拝メッセージのようす。先週の記事。
その(格上の)牧師先生の礼拝メッセージは約半数が寝てたわけです。
 私も、姿勢を範囲内にとどめるのが精いっぱいで脳は休眠状態でした。
まわりは安らかな眠り。


 ところが今日はみんな目がパッチリ。説教者から次々と示される聖書個所を熱心にみているじゃありませんか。
 私もまったく眠気はきませんでした。


これ、あの牧師先生はこのブログ見ることないはずだから書いてますが。
 あの先生が見たら怒るかな。いや、神につかえるほどの牧師先生だからこんなことは笑ってスルーでしょう。


「まっすぐな言葉はなんと痛いことか」とか「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く~」ってところでしょうか。とにかく聖書個所をたくさん開きました。


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「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は言われました。イエス様が語る言葉でも「聞く耳のないもの」には無意味だったということです。
 なので私は説教は必ず聞く耳を持って、説教者が誰であれ神の言葉を文字通りに神の言葉として聞く姿勢でのぞむわけです。
 しかあし!、イエス様が言われたとおり「心は燃えていてもカラダは弱い」が現実で、弟子たちも眠ってました。
 私も、肉体的にきついし神経も使う現場の仕事を1週間がんばってしてきて、神様が何もせず休まなきゃいかんよと命じられた「安息日」、日曜日に空調のきいた会堂で子守歌(説教)聞かされたら、そりゃ寝ますよ。


 なのに今日の説教はみんな寝なかった。パチパチ。良いメッセージでした。


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 まー、内輪の話としては、これはあくまでも個人的な希望ですが、反対側もいつかお願いしたいです。教派教団は反対側の、教理的に都合の悪いことは黙殺がお約束。
 そこを乗り越えての真実正直な牧師先生は尊敬します(残念ながらそんな先生は見たことも会ったこともないです)。私なんぞが聖書個所をとりあげるまでもなくキリがないほどにナンボでもありますよね。こういう者は天国に入れませんって書いてある箇所。キリスト者ならこうでありなさいって書いてある箇所。戒めや行いに関すること。


 聖霊派でもこれは同じです。癒しや奇跡を言うならば悩める信者全員に奇跡と癒しをと思うんだけど。祝福だ繁栄だ信仰だ癒しだ奇跡だ悪霊追い出しだ、は、私の耳をあけてからにしておくれ。あるいはなぜダメなのかを聖書にもとづいて理路整然と説明しておくれ。
 だいいいち私に直接祈ってくれないのが現実。耳に手を置いて。
福音派のある牧師は手をおいて祈ってくれましたが。聖霊派でもひとりだけ、頼んだら祈ってくれた牧師先生がおられました。


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 私自身はすべて納得しています。神を疑う余地などありません。現実です。心の文化みたいな宗教はやりません。アホらしいです。損するだけです。そんなムダなエネルギーないです。ムダなカネもありません。たとえばほんとに神がいないなら、女遊びに行っちゃうと思います。かーちゃんいなくなってからというものヒジョーに寂しいですので。


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以前も書いたけど、いや、何度も書いたけど、聖書は全体で真理です
 教派教団ってのはその主張する箇所を看板にします。主張する都合に応じて聖書個所を事実上取捨選択状態。
 私はそれが気に入らんのよ。


 でも、今行ってる教会がこれまででは一番居心地がいいです。主はここに導いてくださったと信じます。今日の礼拝でも聖霊によってとかペンテコステの日とか、ガチガチの福音派では使いたがらない単語や、メッセージでは次々と聖書個所を開いていくなど、これまたガチガチの福音派ではやらないことで、聖霊派教会にいるのかと錯覚くらいでした。
 福音派のある教会では昔のカトリックみたいに、信徒には聖書あまり読んでほしくないようなところもあります。
 「先生、聖書にこう書いてるんですけど、どうしてウチの教会では」ってやられるのを嫌うんですよね。


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 で、私が神様について「だって現実だもん」と断言する根拠。
「神の国は言葉にはなく力である」Ⅰコリント4章だね。
パウロは自分が使徒であることの証拠も語っています。神の力のあらわれです。
 私もまた、このブログの「経験体験」カテゴリにUPしているとおりです。
理屈や教理や神学じゃないです。神の言葉の約束そのものを体験しています。


また、不都合なことや、なんでこんな、ことが起こるのは、ひとつは知識不足。
教会は不都合なこと教えてくれません。
 敵である悪魔のこと。彼らは日夜わたしたちの行動を見張って、「吠えたける獅子のように」食いつくそうとしています。ネットで今調べたら「サタン」って「告発者」の意味があるそうですね。対してイエス様は弁護してくださることはよく知られてます。 
「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」ってのはホセアだね。


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でね、これらをつぎはぎして、宗教的に仕立て上げたのがキリスト教なんだなあ。
 そのまま読めよ、って思うんだけど。
そのままふつーに読んでりゃこの世のありさまも、なんであんなことこんなことも、クリスチャンは迫害や苦労が多いのも全部そのまんまじゃん。


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 ってことで、日曜日でした。
伴侶ほしー。ふたりで暮らしたい。


 ダメだな、こんなオレじゃ。
多少ヤケで生きてます。


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 だってさ、組織の中でえらい先生が耳に手を置いて祈っても何の変化もなく、教会内ではバカにされてるような人が手を置いて祈ったら奇跡がおきて耳が開いちゃったら「偉い先生」の立場なくなるじゃん。だから奇跡や奇跡的な病気の癒しは現代では無いってことにしちゃったんだ。その程度だよ。と私は思ってる。


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「天罰」ちゃんとあるよ。だから私は神をおそれ警戒している。罪に対して。
 以前も書いたけど、ひとから
「あなたのクリスチャン生活はひとことでいうとどんな?」
と聞かれたら、即答。

「情欲との戦いでした。私より情欲の強い人はこの社会にはいません。いや、いても警察につかまれば刑務所行きです。私は神様のいましめにより、寸前で踏みとどまってきました。肉欲に理性が負けたことはないことを神様に感謝しています。いや、こまかいこと、法に触れないことでは何度も悔い改めをしています。神の前には数えきれない情欲の罪を犯してきました。だから「熱心になって悔い改めなさい」と神の言葉にあるとおり、悔い改めの連続でした。疲れました。妻が死んでからは神様によくこう祈っています「神様、ダビデは正妻のほかにもたくさんの女をかかえていました。200人くらい。私はゼロです。ダビデが女のことで大きな罪をおかしたときあなたは「なんであんなことをしたのか、たくさん与えているのに。それでも足りなきゃわたしはもっと与えただろう」とおっしゃいました。ならばゼロになっちゃった私に、1人でいいんだから会わせてください」と。」


 それもこれもなにもかも、神がおられ、イエスキリストが救い主であり私の主であることが現実だからです。
 ただの宗教だったらこんなバカらしくアホらしいことはありません。エロビデオ見て街に女買いに行きます。キャバクラでどんちゃん騒ぎもいいかもしれない。じっさい知ってますけどね「自称クリスチャン」で「罪はイエス様がすべて背負ってくれたから、何をしようが絶対に天国に行けるんです」と言って、女作って、さらにキャバクラ好きな「自称クリスチャン/教会行ってる」男。彼は古典的な福音派教団の役員さんの息子でした。礼拝はいちおう守ってるようでした。
 私の知る牧師はセクハラ事件やらかしておきながら教会員への説明や悔い改めなしでウヤムヤ。彼もまた「いちど救いを告白したら何があっても天国に行ける」と言ってました。ひでえなあ、それってただの宗教じゃんか。被害者女性は知り合いでしたので情報にまちがいはないです。


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 わたしゃとてもそんなことはできない。
神様はいつでもどこでも見ている。ともにおられる。
 私のおろかさもよおーーーーく知っておられる。


かーちゃんありがとな。神様感謝します。

ちょっと気になる

クルマがね、帰ってこないんですよ。
 もう10日くらい。
洗濯物は干したまま。
 いままで雨の日も何回かある。


 17日の記事。私は耳聞こえないのに夜中に「どかん」という大きな音で目が覚め、その瞬間天井の照明器具あたりを虹色に近い光の帯が舞って行った、というやつ。

 ちょうどあの日の数日前から、クルマ見ていない。
もともと不規則で、出ていくと2~3日は戻らなかった。
 だから彼は長距離トラックやってるんじゃないかと思っていた。
このマンションの住人。何回か顔を合わせている。かるく挨拶した程度。
 知る限りでは独り暮らし。


 あれから2回、晩にカーテンのすきまからあかりがもれてるのを見た。
でも洗濯物はそのままで取り込まれてないし、干すためにベランダの手すりにかけた敷物もそのままだ。
 親類が部屋を確かめに来た?・・・と思ってしまう。


 洗濯物入れるの忘れて遠くに旅行に行ってるのならいいんだけど。でも部屋の明かりがついてるの見たし。その時限りでね。今日もドラッグストアの帰りに外から、ベランダ側から見たけど部屋は暗いままだ。洗濯物も、雨ざらしになった敷物もそのまま。


 ・・・無事でいてくれ。

すきとおる肌でした

今日も夕飯は白飯なしでした。
 昨日の写真

 右下にあるピーマンとタマネギを炒めて卵投入。
キュウリ1本まるかじり。そしてナベの煮物とカボチャ。
 とにかく消化しなきゃならないので、ごはんは無しです。
長いもがまだそのままです。明日は長いもも食べます。
「野菜食べなきゃ」はいいのですが、テキトーすぎるとこうなります。
イッキに食べすぎはイカンので、うまく消化しなければならない。


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明日も仕事です。
 がんばります。
かーちゃんと猫2匹いたときは、ふつーに元気に頑張ってました。
 独り者になってからは頑張らないと頑張れません。これはつらいです。
神様おねがいです。ふたりで暮らしたいです。


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いつものドラッグストアのレジ。バイトのお嬢さん、新顔。スラッと長身。
 おつりもらうときに、手!指。


袋詰めの台に移動してから、客が途切れたのを見て
「ねえ、もう一度手を見せて」
見せてくれました。
「すっごいきれいだよね。肌白いね」
もちろん本人自覚していて、笑ってました。
 いやほんと、すっごくきれいに白い。
私の妻も肌は年齢無視してきれいでしたが、かーちゃんより上いく肌は初めて見ました。

落ち込んでる

しょうがない。
 落ち込むままに落ち込んでおけ。
沈んでる。
 なるままにまかせる。


 クリスチャンったって、地上にいる限りはいろんなことあるし、いろんなことに気分は左右される。宗教じゃないんだから、ウソついて「今日も何々様はすばらしい。いいことが必ずあります」とか言ってらんねーよ。


 道路交通法を賛美し感謝してほめたたえつつ守る、という人はいない。時に自分個人には不都合や納得いかなくても法律を犯すわけにはいかない。
 逆に、法律を逸脱しない限りは法に守られてる。
 いっしょ。人から出た宗教はそのへんテキトー。テキトーに耳に聞こえのいいことだけ言ってる。もちろんそんなうまいことにはならないが、ならなくても責任はないから口から出まかせでいい。


 わたしゃ何度も何度も言っている。
神様にはたいへん失礼な言い方。
「現実事実だからしょうがない。神様はいて、人間は必ず死ぬし、天国地獄が実在して、人は死んだらどっちかに行くのが現実」
 だもんでさ、昨日の晩からヒジョーに落ち込んでますが、ジタバタしてもしょうがないから時の過ぎゆくままに。
 あ、「とーきーのー・すぎゆくままーにー」って歌ってたの、あのおっさんどうしてるのかな。まだ生きてるよね。ずいぶん前に、いいトシこいて体型崩壊のままコンサートやるってときに集客数が少ないからやらないとダダこねてまわりを困らせ損害与えたとかいう記事見たけど。
「アンタの時代はーよかったー」ってか。終わったんだからすなおに低くしてりゃ賞賛を得ることもできただろうに。プライド振りかざして「末路」みたいになって。


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 今、旧約聖書の通読は「ヨブ記」なんだ。知ってる人は知ってるね。定番箇所だ。
何度も読んでるヨブ記だけど、今回はちょっと違和感を覚えた。


 神様と悪魔のやりとりで、
神様「ヨブを見たか、彼ほど神を恐れ、忠実なものはいない」
悪魔「あなたが彼に良くしてやってるからです。彼のものを全部取り去れば彼はあなたを呪いますよ」
 ってとこからはじまって、当時の大富豪だったヨブは子供らも事業(大量の家畜とそのための使用人)も失い、果ては自身のカラダもひどい皮膚病におおわれてしまう。家族財産すべてを失った上にカラダもやられてしまった。
 それでもヨブは「神は与え、取りたもう。神の名はほむべきかな」と言って神に文句を言うことはなかった。
 奥さんだけは生きてたようで、彼女はヨブに
「そこまでなったなら、神を呪って死になさい」と言った。ひでー女房だ。
やがてそれを聞いた友が3人+1人、遠方から来て嘆き悲しんだが、何日か経ってヨブがついに自分が生まれたことを呪い始めたところからヨブ対友の論争になるって話。
 知ってる人にはおなじみの聖書か所。旧約聖書の。


旧約聖書の通読はあまりしてないけれど10回以上は読んでる。
 これまで気づかなかった、何が違和感かというと、友は、神は正しいってことで、ヨブの間違いを探して責めてヨブを納得させようとしてるんだよね。
 なんだかさ、日本人の感情と違って、いかにも欧米人視点だよなと思った。
もし自分自身がヨブの災害被った(こうむった)ならばどうなるかに思いはいかず、神は聖であり正義なのだから、こうなってしまったのはオマエが、ということで3人の友はヨブを責めるのだ。日本人の道徳観、感情とはズレてる。


 でもね、宗教ってこれでしょ。
私がいた、実家がやってた新興宗教ってこれだよ。
 ナントカ様をでっちあげてる以上は、不都合なことはぜったいにオマエ側に非があると決めつけるのだ。そうじゃなきゃいけないのだ。「そうだ。そうに決まった」なのだ。


 で、思い出すのが、キリスト教でも聖霊派の一派が言ってたこと。これちょっと内輪の話でごめんなさい。
 福音派は(ざっくりで乱暴な言い方でゴメン)奇跡や奇跡的な病気の癒しは現代には無いという立場。聖霊派はそれらすべて今も変わらずあるし、祈れば起こりうること。悪霊も追い出せるという立場だ。
 聖霊派としてはそうじゃなきゃいけないので、「使徒パウロは目が悪かった」の定説を受け入れるわけにいかない。パウロはたくさんの癒しや奇跡を行い、彼のエプロン(前掛け)を病人にあてただけで病人が癒されたりしてる。
 なのでパウロが自分で
「自分の身にはみなさんには不都合な部分がある」と言ってる「とげ」は迫害のことだと決めていた。聖書のどっかに「とげ」という単語は迫害のこととして用いられてるから。


 でもさあ、ふつーに読めよ、と思う。
「あなたがたはできることなら自分の目をえぐり出してでも私に与えたいと思った」とか、
「今わたしはこんなに大きな字で自分であいさつを書いてる」とか
「これを(パウロの口述筆記者)書いてる私もみなさまに挨拶を送ります」ってあるじゃん。
ふつーに読んだら目が悪かったんだなと思うだろ。
 さらには、使徒仲間にも「死ぬほどの病気になった」のが複数いたことが書かれている。
パウロがいたのに使徒仲間に重病人がいて「行ってなおしてやった」は、無い。
 なおらない病気もあったということだ。
イエス様だって不信仰な地域ではわずかしか奇跡はなさらなかったと書いてある。


「わたしたちは聖書に書かれてることはすべて現代においても真実と受け止めています」
という立場でありながら、不都合には「こじつけ」するんですよ。
 もう、うんざりです。
福音派はそれはそれでそれなりにそういうことです。なんでやねん、は数知れず。


ということで、教会は選択しなきゃならんというキビしい現実があります。
 ただし、神の子イエスキリストだけが救い主であり、彼を通してでなければ誰も天国には入れませんというひとつのことだけは、すべての教会(異端と呼ばれるニセキリスト教は除く・要注意)で同じです。だもんで、救われるためには教会、でいいです。


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 ちなみに、今私が行ってる教会は福音派に属しますが、ひとことでいうとバランスのいい教会で、神の愛も実践しています。
 耳の聞こえない来会者(私です)にも親切で、現実的実質的なサポートをしてくだっさってます(以前の聖霊派教会では「聞こえない耳で何しに来てたのか」と言われました。自分のパソコン持参で音声テキスト化しないと説教はわかりませんでした。今の教会は目の前に置かれたタブレットに音声テキスト化の表示で礼拝進行がすべて読めます。私は自分では何もしていません。教会が用意してくれました)。
 説教内容も福音派のワリには「聖霊によって」という言葉がよく聞かれ、信仰的には聖霊派寄りの私にも違和感ないです。
 まだ、通い始めてから1年未満ですが。


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 昨日の仕事帰りにスーパー寄って野菜買ったのに、今日も他の買い物ついでに野菜を買ってしまいエラいことになっています。

 こういうとき、独り暮らしは困る。
今日の夕飯は「白飯なし」でした。ちゃんと消化しなきゃ。