kenoブログ

**できればふたりで暮らしたい**

耳が復活したら

さっき、なにげなく祈った。神様に。
 神様になにげなく口から出まかせみたいな祈りってのはふつうはイカンと思うんだけど。


「トンデモな女と思うことが多々の彼女ですが、ひとつだけ、事実として認めなきゃならないことがあります。私の耳がいやされ復活し聞こえるようにと祈ってくれてることにおいては、彼女が誰よりもたくさん祈ってるのは事実です。彼女はただの知人であり、それ以上のつきあいをする気もありませんが、もしも神様、あなたが彼女の願いを聞き入れてくださり、私の耳が正常に戻ったら、そのときは再び彼女に会いに行き、すまなかったと謝罪し感謝を伝えます」と。


 今行ってる教会ではこういうことは、無い。いい教会だけど。
いわゆる福音派では「奇跡的な癒し」は無い、ってことになっている。
(※※ひとくちに「福音派」といっても個々の教会・牧師によってかなり聖書解釈・信仰に違いがある。病の癒しは今でもありうるという立場の教会もあります。事実10年位前かな、福音派のある牧師は私の耳に手を置いて「神様、どうかこの兄弟の耳をなおしてあげてください」と祈ってくれました。まっすぐな信仰の、神様に喜ばれる牧師と思います。あの牧師にも、もし耳が開いたらそのときは報告に行きます。「先生、あなたが私の耳のために祈ったことを覚えてますか」と※※)
 いっぽう、聖霊派では「病の癒し」は前面に掲げてます。今も変わらず奇跡の癒しは神様の栄光の現れであると。
(私のまわりに奇跡的な癒しを受け取った人々がいますが、「必ず・だれでも」ではないので私は「静観」の立場です。声を大にして「癒しだ奇跡だ」ってのはちょっと)


私自身はとくにこだわってない。
 両面ある。信仰者の歩みに。
ひとつは絶対に神は癒してくださるのだと信じてること。
もうひとつは病気に限らずどんな障害があっても神様は助けてくださり生きていけるということ。
 私は後者のほうだ。聴力が低下するにしたがって2回職を変えている。
これについては記事カテゴリの「経験体験」にUPしてある。


 神様はたしかに信じる者の面倒をみてくださっている。
私は自殺未遂の高校中退、中卒で何のとりえも資格もない現業系労働者。


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障害者手帳をもらって、もう8年になる。
 その間に聴力はさらに低下して、現状はたぶん4級レベルと思う。初めて認定されたのは6級で一番程度の軽い等級。手帳は今もそのままで継続。(めんどうな手続きをやりなおして4級にするメリットがないのでそのままにしています。たとえば2級なら障害者年金がもらえるようになります/モリコロスケート場は6級でもタダです/ETC割引も等級変わらず)


 長い期間耳が聞こえなかったのは奇跡的に癒されるには都合がいい。だれも疑わないからだ。手帳もらってのち、癒されるのが早すぎたら「聞こえないのはウソだったんだろ」と言うのが必ずいる。あの新興宗教とかね。


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今日の夕飯。これ、ウチでは豪華な夕飯だ。

買い物行ったから。サラダとアジフライは総菜コーナー。キュウリはまるかじり。味付き肉パックにネギとぶなしめじとキャベツを投入で炒めもの。炒め物は半分残ったので明日に。

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