これ。
文章でのあかしは過去にUPしたことがある内容ですが、動画にしました。
あかしのページにも「その11」として追加しました。
また次もUPしたいですが、いつになるかは気力(体調・精神)しだい。
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ところで、人間て、勝手なもんで、世間とか一般論には「右にならえ」しますが、それ以外は自分の都合しだいです。
たとえばね、宗教ですよ。
私の実家、肉の兄弟たちは草加で、活動団体である草加とケンカして分かれた寺側のケンショー会です。草加側の坊さん1人と懸賞側の坊さんが2人。いまはそんだけになった。弟と長兄がいたのだが、とっくに死んだ。
彼らとはまったく話ができない。
論じ合うことについて、こちらはいつでも歓迎している。
「オマエの話、聖書のことを聞きたい」と言われれば飛んでいく。何時間でも話す。
逆にこちらから
「私はものごころついたときから頭ごなしに「これをおがめばよくなる。キリスト教なんか悪魔の宗教だ、あんなもの拝んだら不幸になる」と洗脳されました。兄貴たちよ、今一度わたしにあなたがたの教えを説法してほしい。もしも聖書がまちがいであると確認したなら私はキリストを捨てるから」
と24歳の時に呼びかけたのに、兄弟も両親もみんなダンマリで逃げた。坊主のひとりはこういう手紙を返してきた。
「おまえのようなヒヨコのくちばしを折って遊ぶほど私は酔狂ではない」と。
私はその、坊主をやってる兄(寺の住職です。今は台湾の寺にいるようだ)にこう返事を書いて出しました。
「兄よ、残念だ。あなたは僧侶だ。僧侶というのは衆生にたいして神の代理人であることを知らないわけではないでしょう。あなたの神は「私は、幼いころに理由もなしに強制されただけで、教理も知らないままだから、今一度説法してほしい」という者に、そのように答えを返すのですね。キリストはそういうことは言いませんでした。人はだれでもまちがいを犯すものです。兄貴が「あれはまちがいだった」と言うなら、私はまだ聞く耳をもっています。あれがあなたがたの神の言い分であるなら、私は今後あなた方の宗教について、今回ののやりとりを人々に言い続けることになります」と。
もちろんそれっきりです。
そんなもんですよ。
だから彼らとは話しはしないしできません。
そうかに限らず、宗教はみんな同じで、自分らの教えこそ正しく崇高なものであると主張し、同調する者が「善い人」なのです。イチャモンつける者は「悪人」です。
そこに論じ合う余地はありません。
人間のエゴとプライドだけだからです。
「おまえなんかにわかるもんか」と捨てゼリフでおしまいです。
論理的な話し合いというのは、対等な立場から「論理的な話し合いをします」という合意、あるいは決心でもいい、そういう関係で成り立つものです。
私の兄のような坊主では会話は不可能です。
「おまえのようなヒヨコのくちばしを折って遊ぶほど私は酔狂ではない」
これが草加やその分派の坊さんの言い分です。説教してくれと言った者に対して。
「聖書の話をわかりやすく解説し聞かせてください」これを言って、「あなたにはムリだろうから説教はしません」という牧師は、おそらく全国探してもまずいないと思います。
また、もしそんなことを牧師が言ったなら、天罰が来ます。
その場ではムリで、時間の予約が必要なケースはあると思いますが。
いや、話したかったのはそれじゃなくて、理科の実験。
私は「あかし」をUPしています。
ひとつやふたつではないし「ふつうによくあることじゃんか」でもありません。
ひとつやふたつなら、確率的にありうることもあるでしょう。
しかし確率計算が不可能な記事もUPしていますし、予告ホームランみたいな現象もあります。あぶなくてとてもマネできない、マネしてほしくないこともUPしています。
聖書が真実であるかどうか。
小学校の理科の実験では、教科書に書いてあることが事実かどうかを授業の実験で証明し、確認します。
それで、先生がやってみてほんとにそうなると「これは事実が科学的に証明されました」として、そのように教育されます。
根拠は「世界的にそう認識されているか」ですね。
なので、あとで覆(くつがえ)って、たまあに
「定説とされていたあれはまちがいであることが証明された」なんて事件もあるのです。
エラい博士などが実験や理論で発表し、学会や最後は政府、世界が認めると、それは事実と認識されます。
私の「あかし」は私にとってはもはや真実以外の何物でもありません。
聖書が真実であると霊で悟り、そのまんま行動し、結果を見ているのです。
でもみんな聖書もイエス様も信じません。
都合が悪いからです。
世間体、会社社会、身内の宗教。
世の「科学的見地」からはバカにされる、
教会に行くと時間とカネがとられるし人々の目もある、などなど。
都合の悪いことは「そんなものは」で吐き捨てます。
私の兄貴たち坊主と同じです。
イエス様は死人をも生き返らせ、病人を癒し、各障害者を治しました。
また、子供や人々から悪霊を追い出しました。
これら事実を見ていながら、都合が悪ければ「殺してしまえ」が人間のエゴです。
十字架にはりつけにして殺してしまえと群衆をたきつけたのは律法学者やパリサイ人、そして祭司たちでした。今でいえば牧師や神父、教職者たちです。
ヒラの信者から見るとエラい人たちですね。
「病気の癒しや奇跡は、現代にはありません」
「悪霊追い出しなど、オカルト的なのは異端です」
「悪魔や天使の話は教会では話してはいけません」
「聖書は牧師や教団の解釈に従いなさい」
まったくいっしょですよ。あの当時と。
都合が悪ければ「異端」にします。
人間の罪の性質は根深いです。
だからイエス様が宣教をはじめたときの第一声は
「悔い改めなさい」でした。
教会によって教理や教えの幅は広いです。
牧師にも個人でクセがあります。
現在私が通ってる教会は、普通の教会ですが、バランスが良い教会です。
安心してひとに紹介できるのはありがたいです。
教会員の方々は柔和で親切です。
私が知る限り、お高くとまってる人もいません。
熱心すぎてこわい人もいません。
聖書について理屈をこねるのが好きなうっとうしい人もいません。
神様に感謝しています。

