聖書的に、自分でできることは自分でしなければならない。
「あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい」
(伝道者の書9章10節)
また、
「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」
(箴言10章22節)
とも書かれている。
ここで箴言10:22については注意が必要で、
「だったら何をしてもムダということですか」ではない。
「人の苦労は何もそれに加えない」、つまり、苦労は必要なんです。
ナンボ苦労しても神の祝福がなければすべてパーになる。
種をまかなければ収穫は期待できない。
これは信仰者には毎度のあるあるで、わかってることです。
たとえばね、断食して徹夜で祈って、願いがかなえられたとする。
「私がハラペコをこらえて断食し、フトンで寝たいのもガマンし、一生懸命祈ったことで願いを実現することができたのだ」ではないです。
それを完全な主権をもって恵みとして、すなわちまったくのプレゼントとして与えてくださるのは神様です。どんだけ祈ったからではないです。労働の対価とは違います。
でもやっぱり祈ることはとても重要です。信仰の基本中の基本です。
ほんのひとことの祈りが大きな奇跡になることもあれば、願いが叶わないこともあるのが現実です。とくに人に関しては自由意思があるのでややこしいです。
「なぜなら妻よ、あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ、あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか」
(第1コリント7:16)
ガチの信仰者はこういうことがわかってるうえで祈り続けます。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺することなく、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」
(へブル10:23)
これがわかってないと、祈りがかなえられた時や、奇跡的な経験をしたときに、神様に栄光を帰する(すべての栄光は神のものである)ことができません。
「祈ってくださってありがとうございます」
「あの人が祈ったら問題が解決した」
「キリスト教やってるといいことがある」
という「え、神様は?」になってしまいます。
主なる神様は
「わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像ども(偶像/いつわりの宗教の神々)に与えはしない」
(イザヤ42章8節)
と書かれているとおりです。
エラく遠回りしちまった。
行動しようか迷っている。
聖書でいうところの「助け手」(創世記2の18)獲得のために。
「とりあえずできるかぎりのことは自分ですべき」と。
じつは期待できる方策はある。
基本的にカネはかからない。
個人情報の提供も必要ない。
これを実行すると成功の確率が高いので、慎重にという意味で避けてきた。
クリスチャン限定ではないところがちょっと抵抗ありだけど。
ヒマつぶし程度でやってみるか。
ダメだな。やめとこう。
教会・クリスチャンつながりが安全だ。
(夫婦写真に「盛ってくれ」指示のAI生成画像)

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追い打ち。
悲しくなる。
玄関チャイムは大音量と激しい点滅光で知らせるものを用意している。
先日その装置の電池交換をしました(半年しか持たない)。
一昨日が水道代の集金日だった。
たまに大家さんが集金日をずらすことはあるのですが、2日遅れたことはないので「あれ?」と思ってました。
今日、玄関扉に「至急連絡ください」とメモがはさんであった。
もしやと思い、光点滅ピンポンをチェック。
作動しませんでした。
いつもは電池入れ替え時に動作確認するのですが、今回はしてませんでした。
電池が接触不良でした。何本かパックの外ビニールは剥がしたのですが、さらに個別に薄いビニールがかかっていて、それに気づかず電池をセットしていました。
大家さんのメールと携帯のSMSに申し訳ないすみませんと打ちました。
ふたりで暮らしてた時はこういった日常のことはすべて妻が対応してくれていた。
ふだん、耳が聞こえないことで困ることはめったにないです。
昨日、あることで精神的にダメージ受けていたので、今日の事件は追い打ちとなってしまいました。かなりへこみます。
まだ大家さん来てない(距離的に近いところに住んでいる)けど、玄関扉を半開しています。カメムシやハエなどの虫が入るとイヤなんだけど。
探そう。ひとりはきびしい。
トシとともにストレスに弱くなっていってる。
※逆にずうずうしく無神経にもなっています。なんやらわかりません。









