kenoブログ

**イエスキリストを信じなさい**

今日の礼拝はよかった

今日の礼拝、というとメインは説教になってしまうのですが。
 いちおう断りとして、礼拝は説教を聞きに行くのではありません。
神様を礼拝しに行くのです。
 英語圏で生活していた牧師から聞いたことがあります。
あちらでは礼拝は「サービス」の単語を使うそうです。
 礼拝の一部として説教があり、それで聖書の言葉や神様からの言葉を聞くのです。


で、本題の、なにがよかったかって。
説教なんですが。
 今日の説教者は牧師ではありませんが教師の資格をもっています。つまりヒラの信徒よりは上なのですが、牧師という、教会の総元締め的な人ではないです。
 けっこう気合が入った感じのメッセージでした。内容的にはすべてアーメンで、何度聞いても良い聖書・神様の言葉でした。


 牧師、現在はいないんですよ。今行ってる教会。
それでたまに(基本月1回)三重県津市の同系列教会からはるばる牧師先生が来られます。それなりにエラい先生なのかなと思っております。


でね、先週の礼拝メッセージのようす。先週の記事。
その(格上の)牧師先生の礼拝メッセージは約半数が寝てたわけです。
 私も、姿勢を範囲内にとどめるのが精いっぱいで脳は休眠状態でした。
まわりは安らかな眠り。


 ところが今日はみんな目がパッチリ。説教者から次々と示される聖書個所を熱心にみているじゃありませんか。
 私もまったく眠気はきませんでした。


これ、あの牧師先生はこのブログ見ることないはずだから書いてますが。
 あの先生が見たら怒るかな。いや、神につかえるほどの牧師先生だからこんなことは笑ってスルーでしょう。


「まっすぐな言葉はなんと痛いことか」とか「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く~」ってところでしょうか。とにかく聖書個所をたくさん開きました。


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「聞く耳のある者は聞きなさい」とイエス様は言われました。イエス様が語る言葉でも「聞く耳のないもの」には無意味だったということです。
 なので私は説教は必ず聞く耳を持って、説教者が誰であれ神の言葉を文字通りに神の言葉として聞く姿勢でのぞむわけです。
 しかあし!、イエス様が言われたとおり「心は燃えていてもカラダは弱い」が現実で、弟子たちも眠ってました。
 私も、肉体的にきついし神経も使う現場の仕事を1週間がんばってしてきて、神様が何もせず休まなきゃいかんよと命じられた「安息日」、日曜日に空調のきいた会堂で子守歌(説教)聞かされたら、そりゃ寝ますよ。


 なのに今日の説教はみんな寝なかった。パチパチ。良いメッセージでした。


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 まー、内輪の話としては、これはあくまでも個人的な希望ですが、反対側もいつかお願いしたいです。教派教団は反対側の、教理的に都合の悪いことは黙殺がお約束。
 そこを乗り越えての真実正直な牧師先生は尊敬します(残念ながらそんな先生は見たことも会ったこともないです)。私なんぞが聖書個所をとりあげるまでもなくキリがないほどにナンボでもありますよね。こういう者は天国に入れませんって書いてある箇所。キリスト者ならこうでありなさいって書いてある箇所。戒めや行いに関すること。


 聖霊派でもこれは同じです。癒しや奇跡を言うならば悩める信者全員に奇跡と癒しをと思うんだけど。祝福だ繁栄だ信仰だ癒しだ奇跡だ悪霊追い出しだ、は、私の耳をあけてからにしておくれ。あるいはなぜダメなのかを聖書にもとづいて理路整然と説明しておくれ。
 だいいいち私に直接祈ってくれないのが現実。耳に手を置いて。
福音派のある牧師は手をおいて祈ってくれましたが。聖霊派でもひとりだけ、頼んだら祈ってくれた牧師先生がおられました。


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 私自身はすべて納得しています。神を疑う余地などありません。現実です。心の文化みたいな宗教はやりません。アホらしいです。損するだけです。そんなムダなエネルギーないです。ムダなカネもありません。たとえばほんとに神がいないなら、女遊びに行っちゃうと思います。かーちゃんいなくなってからというものヒジョーに寂しいですので。


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以前も書いたけど、いや、何度も書いたけど、聖書は全体で真理です
 教派教団ってのはその主張する箇所を看板にします。主張する都合に応じて聖書個所を事実上取捨選択状態。
 私はそれが気に入らんのよ。


 でも、今行ってる教会がこれまででは一番居心地がいいです。主はここに導いてくださったと信じます。今日の礼拝でも聖霊によってとかペンテコステの日とか、ガチガチの福音派では使いたがらない単語や、メッセージでは次々と聖書個所を開いていくなど、これまたガチガチの福音派ではやらないことで、聖霊派教会にいるのかと錯覚くらいでした。
 福音派のある教会では昔のカトリックみたいに、信徒には聖書あまり読んでほしくないようなところもあります。
 「先生、聖書にこう書いてるんですけど、どうしてウチの教会では」ってやられるのを嫌うんですよね。


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 で、私が神様について「だって現実だもん」と断言する根拠。
「神の国は言葉にはなく力である」Ⅰコリント4章だね。
パウロは自分が使徒であることの証拠も語っています。神の力のあらわれです。
 私もまた、このブログの「経験体験」カテゴリにUPしているとおりです。
理屈や教理や神学じゃないです。神の言葉の約束そのものを体験しています。


また、不都合なことや、なんでこんな、ことが起こるのは、ひとつは知識不足。
教会は不都合なこと教えてくれません。
 敵である悪魔のこと。彼らは日夜わたしたちの行動を見張って、「吠えたける獅子のように」食いつくそうとしています。ネットで今調べたら「サタン」って「告発者」の意味があるそうですね。対してイエス様は弁護してくださることはよく知られてます。 
「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」ってのはホセアだね。


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でね、これらをつぎはぎして、宗教的に仕立て上げたのがキリスト教なんだなあ。
 そのまま読めよ、って思うんだけど。
そのままふつーに読んでりゃこの世のありさまも、なんであんなことこんなことも、クリスチャンは迫害や苦労が多いのも全部そのまんまじゃん。


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 ってことで、日曜日でした。
伴侶ほしー。ふたりで暮らしたい。


 ダメだな、こんなオレじゃ。
多少ヤケで生きてます。


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 だってさ、組織の中でえらい先生が耳に手を置いて祈っても何の変化もなく、教会内ではバカにされてるような人が手を置いて祈ったら奇跡がおきて耳が開いちゃったら「偉い先生」の立場なくなるじゃん。だから奇跡や奇跡的な病気の癒しは現代では無いってことにしちゃったんだ。その程度だよ。と私は思ってる。


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「天罰」ちゃんとあるよ。だから私は神をおそれ警戒している。罪に対して。
 以前も書いたけど、ひとから
「あなたのクリスチャン生活はひとことでいうとどんな?」
と聞かれたら、即答。

「情欲との戦いでした。私より情欲の強い人はこの社会にはいません。いや、いても警察につかまれば刑務所行きです。私は神様のいましめにより、寸前で踏みとどまってきました。肉欲に理性が負けたことはないことを神様に感謝しています。いや、こまかいこと、法に触れないことでは何度も悔い改めをしています。神の前には数えきれない情欲の罪を犯してきました。だから「熱心になって悔い改めなさい」と神の言葉にあるとおり、悔い改めの連続でした。疲れました。妻が死んでからは神様によくこう祈っています「神様、ダビデは正妻のほかにもたくさんの女をかかえていました。200人くらい。私はゼロです。ダビデが女のことで大きな罪をおかしたときあなたは「なんであんなことをしたのか、たくさん与えているのに。それでも足りなきゃわたしはもっと与えただろう」とおっしゃいました。ならばゼロになっちゃった私に、1人でいいんだから会わせてください」と。」


 それもこれもなにもかも、神がおられ、イエスキリストが救い主であり私の主であることが現実だからです。
 ただの宗教だったらこんなバカらしくアホらしいことはありません。エロビデオ見て街に女買いに行きます。キャバクラでどんちゃん騒ぎもいいかもしれない。じっさい知ってますけどね「自称クリスチャン」で「罪はイエス様がすべて背負ってくれたから、何をしようが絶対に天国に行けるんです」と言って、女作って、さらにキャバクラ好きな「自称クリスチャン/教会行ってる」男。彼は古典的な福音派教団の役員さんの息子でした。礼拝はいちおう守ってるようでした。
 私の知る牧師はセクハラ事件やらかしておきながら教会員への説明や悔い改めなしでウヤムヤ。彼もまた「いちど救いを告白したら何があっても天国に行ける」と言ってました。ひでえなあ、それってただの宗教じゃんか。被害者女性は知り合いでしたので情報にまちがいはないです。


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 わたしゃとてもそんなことはできない。
神様はいつでもどこでも見ている。ともにおられる。
 私のおろかさもよおーーーーく知っておられる。


かーちゃんありがとな。神様感謝します。

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