kenoブログ

**イエスキリストは私の主です**

自己中視点で教会を判断

keno

 現在礼拝を守っている教会は、過去にお世話になっていたどの教会よりも居心地がいい。

これは現実事実。

 で、このことを客観的な評価ではなく、自分個人の視点から理由を探ってみる。

もともと教会との相性は各個人と各教会の特性でさまざまです。


 まず自分は「空気に合わせる」がニガテです。

これは社会を生きる上で私の欠点。

 どの世界でもそこで居心地よく過ごそうとしたら、そこの空気に合わせるのは程度の問題はありますが必要です。

 教会であればどういう特性の教会、つまり聖書解釈や教理教義であるとか、牧師がどういう人であるかなど。

「違うな」と判断したら最初から関わらないのが互いに益。


 以前通っていて、結局出てしまった教会のその理由。

ある教会の場合はもともと教派教団の教えにムリがあった。

「ガチガチの福音派」でした。

家から近いという理由で通っていました。

 牧師には、私の聖書解釈やそれに伴う信仰(聖霊派)が教会とは違っていることを最初から話して了解を得ていました。

「会衆の中で、教会に迷惑かけるような言動はしないから、礼拝を守らせてほしい」と。

教理に影響しない、賛美(歌/当時はまだ耳が生きていた)バンドやパソコン関係は牧師と協力して奉仕していました。

 小さな教会でしたので、会堂の鍵を預けてくださり、夜間早朝などにひとりで礼拝堂で祈れるという大きな恵みもいただきました。

 あるとき残念な事件が発生してしまいました。信仰の許容範囲を越えていたので、黙って離れました。


 もうひとつの教会の場合。

聖霊派の教会でした。信仰的には合致しています。

 教えもバランスよく、聖書解釈、教理、礼拝ごとに語られる説教もそのまま安心して聞ける内容でした。

 ただ、その教会には「この教会は聖霊に満たされた素晴らしい教会」という空気がありました。私はその空気に同調しませんでした。

 また、複数いる教職者のなかには私が聴覚障害者で耳が聞こえないことを伝えるタイミングが遅かったことについて、常識はずれな叱責をいただいたことがありました。

 さらに牧師から説教中に個人攻撃もくらってしまい「もうムリ」と脱出でした。


もちろん、先に述べたように、私の性格には社会適応で欠点があります。

 そこが合う人にとっては良い教会です。教会自体に問題があるとは思っていませんし、むしろ聖書解釈や教えについては良い教会でした。

 なので「その教会が悪かった」わけではありません。

あくまでも私個人との相性でした。


 前後しますが大きくさかのぼって、昔、イエス様を信じた最初に通っていた教会。

何も問題なかったです。牧師は東大教育学部卒のアタマのいい人でした。

 冗談も通じ、私のような足りない人間に対しても寛容があり性格のよい牧師でした。

しかしのちに「異端のカルト教団」にハマってしまい、その拠点がある名古屋に私は引っ越しました。異端のカルト教団は5年ほどで脱出。


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 今の教会です。通い初めて3年ほどになると思います(たぶん)。

自己中視点で、なんでこんな私が「ここは居心地がいい」と思うのか。


 ひとことでいうと「寛容」です。

これ、ごく最近気づきました。


 よく教会というと、要素として注目は「愛」ですね。

「神の愛がどれほど満ちているか」などの表現が使われます。

 愛の行動、実践。

正直、私はこの教会がとくに他の教会と比べてまさっているとは思いません。

 ただ、以前の教会では耳が聞こえないことを叱責される(「おこられた」のです)というイヤな経験をしています。

 この教会では私が頼んでいないのに、目の前に音声テキスト化タブレットを置いてくれました。視覚的に文字で礼拝進行や説教が聞ける(読める)ようにしてくださったのがとてもありがたかったです(現在は自分のノートパソコンを持ち込んでいます)。


 でも「愛」よりも「寛容」なんです。

私が最近気づいたのは。


 たとえばで言うとこんなかんじ。

「いいよ、好きにしてなさい。騒いで迷惑かけるわけじゃない。個人の信仰や聖書解釈とかクリスチャン生活の習慣や信念はあなたの自由でいいから」


 距離感も、

ほっといてくれるし、寂しい思いをさせない程度の配慮もある。

 これは耳がダメな私にちょうどよい。


 教会内の空気。

「あのひとには気をつけろ」というひとはいない。

仕切りたがる人もいない。

 しつこい人もいない。

私は性格に欠陥やクセがありますが、私に/私が、神経使う人はいない。

 みんなふつうに気軽に話せるし、そういう雰囲気がある。


ひとことでいうと「寛容」です。

 うけいれてくれている。

失礼な言い方するなら、みんなテキトーにしてくれてる。


 さらに、私は(あえて言うならですが)聖霊派の信仰です。

でも聖書解釈を論じあったこともないです。

 基本、この教会って聖霊派と違和感ないです。

これはたいへんありがたい。

 このことも含めて「寛容」です。


 私みたいな(ダメ)人間って、

一定レベルの常識をそなえた社会人に要求される定規をあてられると、いじけたりキレたり逃げたりする。

 これまでの人生で経験してきています。イヤな思いもしてきました。

自分のバカさ加減にもうんざりしています。


 イエス様の寛容って、すごいですね。

神にはきびしさもありますが、神様が寛容でなければ私はとっくに地獄行きです。

 またの機会に聖書から記事をUPしようと思います。