教会関係の内容です
(※長くなるのでクリスチャン向けになると思います。未信者でも関心のある方には益になる内容と思います)
先週、6月28日の礼拝説教。
初めての感覚・体験がありました。
まず言っておくべきは、言葉(文字)ではうまく表現できません。
ある程度年数を重ねた信仰者なら「言葉ではうまく伝えられない」をご理解いただけると思います。そういう体験経験をされた方も多いでしょう。
月に一回、三重県から来られる牧師先生です。
現在私がお世話になっている教会は牧師がいません。
教職者資格を持つ「伝道師」が平時は事実上の代表者の役割をされています。
しかし牧師職がすべき冠婚葬祭や重要な決定とか相談は監督している牧師に振られます。
その監督牧師が先週の礼拝説教者でした。
聖書引用箇所が使徒の働きの3章。
うまれつき歩いたことのない、足に障害を持つ男性が使徒ペテロとヨハネを通して瞬間的に足がなおり健常者として歩き出したという奇跡の場面です。
そして説教の主題は「イエスの名」です。
「イエスの名の権威。無償で与えられ、受け取れる、絶対的な神の権威、ゆるし」です。
これ当然、アタマではわかってることです。
聖書の基本中の基本ともいえる項目です。
「クリスチャンならだれでも」と言えるほどに知られてる箇所です。
私は別の個所の、同様に奇跡の癒しがあらわされた場面、使徒の働き14章を思い出しました。
ここでは使徒パウロが、3章同様に生まれつきの障害で歩いたことのない男に
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と大声で言いました。
奇跡が起こり彼はその場で完全になおり「飛び上がって歩き出した」とあります。
3章のペテロとヨハネの場面でも、14章のパウロの場面でも「イエスの名」によって奇跡が起きました。
「イエスの名の認識」が重要ポイントになります。
「イエスの名を受け取る信仰」でもいいと思います。
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私は、ある程度聖書を学んできました。
けして精通はしてませんし、正規の教育を受けたこともありません。
でもたぶん、信者の平均よりは知ってるし、いくつか奇跡的な体験もしています。
経験を経たクリスチャンなら知識と信仰(信仰深さ・度合い)は別物ということを知っておられるはずです。
知識は重要であり、聖書を知らないでは信仰も湧きません。それは事実です。
その一方で聖書知識を積み重ねた人が、イコール「信仰が成長した人」ではないことも事実です。このことは聖書自体が言っているし、当時誰よりも聖書に通じ博学であったパウロも証言していることです。
話を本題に戻します。私の体験、思うことです。
イエス様が奇跡の癒しを行った場面ではよくこのように言われました。
「あなたの信仰があなたを癒した(なおした)のです」と。
これだけを見ると、癒しの奇跡はその人の信仰で起こる、本人の信仰が神の癒しを受け取る条件と解釈できます。
聖霊派の教会ではそのように教えるところもあります。
違う視点で見ます。
そこにはイエス様本人がいたのです。
神のひとり子、神であるイエス様が肉体を持った人間としてそこにいました。
使徒の働きの場面では「イエスの名がこの人を癒した」と宣言していますが、神の働き人であり、神から聖霊によって特別につかわされてる使徒がそこにいました。
いなかったらどうでしょう。
有名な箇所である「長血の女」の癒しの場面でも、イエス様は「あなたの信仰があなたをなおしたのです。安心して行きなさい」と言っています。
この女は「イエス様のお着物にさわることができれば私のこの病気は癒される」と言っていたのです。
「あなたの信仰が~」ですが、そこにイエス様がいなければ癒しはなかったです。
同様に、使徒がそこにいなければ「あなたの信仰が」で、癒しを必要としていた人自身だけで自己完結で足がなおる奇跡は起きませんでした。
使徒パウロが「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で命令して起こった奇跡。
その手前に書いてあること。
使徒の働き14章9節10節
「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目をとめ、いやされる信仰があるのを見て、大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって歩き出した」
ローマ書10章17節
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」
つまりここではパウロが語る、聖書の言葉を根拠とし、イエスのなさる奇跡の癒しの説教を聞いているうちに、この男性は信仰が湧いてきて確信にいたり、パウロのひと声で歩き出したのです。
語るパウロなしには奇跡はおきなかったのです。
パウロがそこで大胆に「立て!」と言わなければ奇跡は起きてないのです。
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先週の礼拝説教中にそれがわかる瞬間がありました。
これが、言葉ではうまく説明・表現ができないんです。
あえて言葉を選びながら話します。
その監督牧師は三重県から来て説教をしていました。
「イエスの名」について会衆に教えていました。
私は持参したパソコンの音声テキスト化で、説教を文字で聞いていました。
イエスの名は、誰にでも、私にも、何の条件も要求もなく、信じ求めるものにはすべて完全に無償で与えられ、それはどんなことにもどんな困難にも制限のない神の力が働くのだという力強いメッセージでした。
ほんの一瞬、瞬間的に、その牧師と私のあいだが、完全にクリヤな空間になりました。
たとえて言うなら、空気も霧も、そして邪念も脳に蓄積された知識も、何もない、真空のような空間でつながったかんじです。
「イエスの名」が迫りました。
私は今もちょっと悔しく思っています。
あの瞬間に、牧師が
「あなたの耳はイエスの名によって開かれている」と宣言したら、開いたと思います。
なぜ言ってくれなかったのかとさえ思います。
と同時に、どんだけ知識や理屈で
「奇跡は現代でも起こるのだ。イエスキリストは今日も変わらず生きておられる」
という知識があっても「聖霊による信仰の瞬間」がなければ奇跡はおこらないということも知りました。
さらに、自分の認識していた、知識上の「イエスの名の権威」がうわべの知識だけだったことも思い知らされました。
まったく無償で、私の行いや、悔い改めや、神の前に正直な姿勢も、なにもかも無関係にイエス様はその名を私に与えられていることを知りました。
もうひとつ、「自分の信仰だけではムリなのだ」ということもすなおに認めました。
そこに信仰の人がいないとだめなんです。これは私の場合です。自身単独で癒しを受け取った方も現実にいます。
しかしほとんどといっていい人たちが癒しをうけとることができていません。
残念なことに、現実は、教会では宣言してくれません。
信仰の人がそこに立ち会い、イエスの名を宣言してくれないと、解放されたいのに癒されない人がたくさんいるのです。私もそのひとりです。
でも、希望が見えました。
あの牧師が、さらに「イエスの名」を説教してくれることを望んでいます。
祈って宣言してくれることに期待しています。
ヤコブ5章
「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪はゆるされます」
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