自力脱出不可能
最近思う。
この前の礼拝説教でもそれを感じた。
説教の主題は違っていたけれど。
自分の性格とか心の傷。
あるいは傷から刺青(いれずみ)になってる悪性。
心の傷というと、自分が苦しむだけで人に対しては無害なものと思われがち。
違うのもあるよね。
攻撃的であったり、ヤケになってキレたり放棄したり、ムキになって否定したり。
クリスチャンでもね、これ、自力ではどうにもならないことがある。
自分で認識してるものはいくつかある。
認識しきれない深いものもある。
ぼんやりとなんとなくそれがあることはわかるが、しかし深いところに貼りついていて、自分で剥がすことはできない。
このまえの説教で思った。
それは聖書的にもありうること。
イエス様自身が行った奇跡。
その後の使徒、つまり信仰も聖さも次元の高い聖徒による奇跡。
「聖人」みたいな人じゃないとできない、そういう性格の癒し、解放。
自分に「あるな」と最近認識し始めた。
新興宗教(創価)で虐待され飛び降りの自殺未遂まで追い詰められたのだから、無いほうがおかしいくらいだ。
そして、教会では牧師に否定されバカにされ、教会を転々とし、現在の教会に落ち着いた。
キリスト教を人の文化や思想という意味での宗教ととらえていたなら、とっくに信仰は捨てていただろう。こんなバカらしいことはない。
でも現実は神が創造主であり、イエスキリストは今日(こんにち)も生きておられる。
それは自分の人生にリアルな体験を通して疑いようがない。
「信じてます」ではなく「知っている」です。
神様が私に語ったことも、これまでの人生で何回かある。
でもとにかく、剥がすことができない。
自分では。
ひとからするどい指摘もあった。
そのとおりです。
なんでわかるかなと思いました。
聖人みたいな、神にもちいられる器(うつわ/奉仕者)が来ないとムリだ。
自分の努力や信仰では、むり。
たぶんこのまま人生終わるまでいくのだろう。
人に対してトゲになる性格も、クソ重たい性格も背負ったまま。
いいんだいまさら。しょうがない。
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これは妻がいた時だ。
私が失業期間中。
妻はフルタイムで働いてたので私が夕飯の用意をしていた。

妻の職場で、働く主婦たちが「今日の夕飯何にするか」が話題になったとき、妻が「ウチはダンナがやってる」と言ったら、全員から「いいなあぁ~」とため息がもれたそうだ。
障害者手帳があったから、失業給付金は約1年もらえた。
土日は妻が作ったが、平日はすべて私がやった。洗濯も掃除も。
「死なれてわかる」がつらかった。
今も。
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