聖書をふつうに読むこと
聖書解釈。
これはなにがキッカケで最初に聖書を読むことになったかの影響が大きい。
ていうのはキリスト教は教派教団があって、極端な教えから異端と呼ばれるヤバい団体までいろいろあるのが現状。
大きくわけてカトリックとプロテスタント、プロテスタントの中で日本の場合福音派と聖霊派(ペンテコステ系)がある。どこにも分類されにくいいろんなのも多数でわけわからん。
それぞれで聖書解釈、教理にちがいがあります。
唯一共通して変わることがないのは
「人類にはイエスキリスト以外に救いはない。イエス様を信じるなら無条件ですべての罪は許され神の子供とされる。死後は天国行きになる」
ということ。これについて違うことを言うのはキリスト教会ではありません。
「異端」と呼ばれる危ない団体です。
団体名は自由なので「何々~キリスト教会」という看板出してたりします。
初心者は要注意です。だまして誘い込むサタンの策略です。
さらにややこしいのが各教会の教えや雰囲気は取り仕切る牧師個人の性格が色濃く出ていること。
私は初心者には
「その教会の教えが、自分が聖書から受けた自然な信仰や理解と違うと思ったら、さっさとほかの教会に行きましょう」とすすめています。
最初はいくつかの、教派教団(たとえば福音派の古典的な教理のところと、分類上は福音派でも聖書解釈が柔軟で神の癒しや奇跡を認めている教会、そして聖霊派と呼ばれる悪魔や天使および神の聖霊の働きについて知識や理解があり、癒しや奇跡について積極的に祈るところ)の違う教会のいくつかに行ってみることをおすすめします。
基本的にそれぞれが「ウチこそ正しい」と言ってるのですから、客観的に見るなら相対的には
「全部がまちがってるか、少なくともまちがった教え(教理)をかかえてる教会がほとんど」
と確率的数学的論理的見地からは言えるわけです。
ならばとりあえず自分が一番納得のいく教会に行くべきです。
やがて聖書を読み進めていくうちに自分自身の理解や信仰も微妙に修正されていきますので、それにあわせて教会選択も再考すればいいと思います。
「そういう考えはいけない。ウチの教会(の教え/牧師の指導)に従いなさい」
と言うところは避けてヨソに行くべきです。
聖書解釈や教派教団の違いによる信徒への弊害はキリスト教会全体の責任であることを認めず「ウチに従っていればいいんだ」というようなところは危ないです。
でね、こういう基本的なことを教えてくれなかったんですよ。
人生初めて戸を叩いた教会は。
高松市の屋島にあったアッセンブリー教団(聖霊派)の教会でした。
カトリックとプロテスタントがあることさえ知らず、まったく無知であった私に、当時の牧師はキリスト教会事情についてなんの説明もありませんでした。
どこの教会に行っても、今でも同じと思います。
自分の教会、教派教団がもっとも正しいという前提なので、初めて教会に来た人を自分の教会にとりこむことしか考えません。
「クリスチャン新聞」というのがあります。当時から今も。
この「クリスチャン新聞」というのは「福音派」が発行しています。福音派教会向けの新聞です。福音派と聖霊派は「犬猿」です。教理に(聖書全体からみると一部ですが)大きな違いがあります。それを知らずに私は初めての教会の牧師に言いました。
「クリスチャン新聞というのがあるんですね。私もそれをとりたいです。申し込みはこの教会でできるのですか」と。
牧師は
「うーーん、まあ、それは今はいいでしょう」
と、はぐらかしました。
あとで事情を知った時に
「なんでそういうことちゃんと説明してくれなかったのか」
と不信感をもちました。
情報を与えず自分の教会に「囲い込み」をしたのです。
これは現在もほぼすべての教会がやることです。
これを最初から(わざわざやらんでもいいと思うが、この例のように説明の必要な機会がおとずれたなら)ちゃんと説明してくれる教会はかなり良心的といえます(そういう良心的な牧師はまずいません/当たったならラッキーです)。
なのに体裁上は「仲良くしてます」
というポーズをとるのは「この世の常識」みたいなもんで、未信者や初心者が
「福音派と聖霊派は犬猿って聞きましたけどほんとうですか」と
質問するとたいてい
「そんなことはないですよ。神様はどこの教会も同じに扱ってくれています。教会どうしは協力しています」と回答。
まったくのウソです。体裁上です。
先のこの記事
救い(天国行き)は失われることがあります - kenoブログ
に書いた聖書解釈は大きな違いのひとつです。
これ、どちらの主張を選択するかによって、自称クリスチャンであっても
「死後に天国に行くか地獄行きになるか」のとんでもない、取り返しのつかない悲劇が起こりうるのに
「これはとことん論争するべきだ」という姿勢は双方にありません。
私はこれ単純に「きたねーな」と思ってます。
神は現実であり、天国地獄の存在も現実であり、天国地獄以外に死後の世界は無く、「中間」とか「消えてなくなるだけ」なんてのは無いことは双方同じ認識。なのでこの問題は放置すべきことではないのに「いや、そういうことで他の教派教団との摩擦は避けたい」なんですね。
これまた私には不信感です。
が、しょうがないです。聖書の初めの時代から人間ってそういうものです。
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私の知人関係はクリスチャンが多いです。
現在礼拝を守ってる教会以外でのつきあいはみんな聖霊派の信仰者です。
私自身の信仰は(あえていうなら、ですが)聖霊派の信仰です。
ですが聖霊派教会の空気に合わせる気はさらさら無いです。
ふつうに聖書読んでふつうにその日本語文章を理解した信仰です。
特別な「真理」とか「奥義」ってのはキライです。
読んでそのまましかわかりません。
(※「この教会は神の霊によって真理が語られるすばらしい教会。よその教会(おもに福音派教会をさしている)では真理を学ぶことができない」という空気に同調しなかったことでイジメにあったので聖霊派教会は行けなくなりました(その個別の聖霊派教会についてだけのことです))
話をぶりかえしてたとえばクリスチャン新聞。
遠い過去の話ですが、こういう記事がありました。
ある信者のあかし(体験談)記事でした。
「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(新約聖書/使徒の働き16:31)」とあるのを読み、私は仏壇をあけて先祖の位牌に向かって「あなたがたも救われた」と宣言しました」
というあかしの記事。
まったくのナンセンス。冗談かと思った。
そもそも
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」
という聖書箇所はクリスチャンのあいだではたびたび話題に上がる、いわば有名な箇所。
信じてもいない家族が、その家族のうちのひとりが信じて救われたことによって家族全員が救われるなどということはありません。
この個所の原本からの訳し方が難しかったのもよく知られています。
正しく解説するなら、たとえばこういうことです。
「家族みんなで東京で開催されるコンサートに行こうと思っています。名古屋から東海道線に乗って各駅停車の電車で行くと、6時間くらいかかってしまい、めあてのコンサートにまにあいません」
に対して
「新幹線を使いなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族もじゅうぶんに余裕をもって東京に行けます」
ということです。
あなたひとりが新幹線に乗ればほかの家族は各駅停車でも全員2時間後に東京駅に立つことができるわけではありません。
みんな全員が新幹線に乗車することが条件ですが、日本語ではそんなくどい言い方しないですね。そういうことです。
そしてもうひとつ冗談だろと思ったのが
「仏壇をあけて先祖に向かって(位牌に向かって)」です。
これも過去記事で
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背景にあるのは「大衆ウケ」をねらった教理。
牧師とか長年のクリスチャンは聞いたことがある人も多い。
外人宣教師がこう言うのを。
「日本の教会の教えはなんだか変だ。「仏教のキリスト派」みたいだ」
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ということを書きました。
当時のクリスチャン新聞にこういう広告がありました。
「クリスチャンホーム用仏壇/〇〇仏具店」
写真付きで。観音開きの扉に十字架がついている。
ちゃんと、位牌まで。
・・・もう、なにもいえません。
(私はこの刊行物をその後は見てません)
今はちがっていると信じたい。
これは私がイエス様を知り、信じた「かけだしのクリスチャン」のころの話です。
「いったいなんなんだこれは」と絶望的な思いになりました。
幸いなことに私が最初に戸を叩き、通っていた教会は聖霊派教会で、そのなかでも比較的おとなしい教理の団体だったので、教えに違和感はなかったです。
神様の導きであったことを感謝しています。
ただね、行く教会を選べるのは地理的物理的にそれができる環境が前提なので、現実はきびしいと思います。
だまって知らんぷりで礼拝だけ守るのがいいと思います。
私がしていたように
「信仰はペンテコステ系ですが、教会内でよけいなこと言って乱すようなことはしませんので礼拝だけ守らせてください」と言って牧師に了解をもらえればそれがよりよいことと思います。
本日ここまで。
明日は礼拝です。
みなさまに神様の恵み、導きがありますように。